30代を過ぎてから正社員を手放した私の転機
「わたしの転機」
どうも、モナカのお世話係です。
私の転機は、と考えてみるとやはり大きかったのは
30代に入ってから正社員を手放したことではないかと。。。
それを少し振り返ってみようかなと思います。
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当時私は札幌に本社を置き、東京や大阪などに支社をもつ企業に勤めていました。
仕事内容としては【管理部】として顧客情報の管理、全国の営業さんが悪いこと(苦笑)してないかのチェックとか、そんなことを主にしておりました。
どの仕事にしても≪すぐ他の人に代わってもらえる≫ものではありませんが、当時の自分の仕事にはとくにそういった色の強いもので、有難いことになかなか融通をきかせてもらえていて、とても働きやすい環境でした。
しかし突然、本社が札幌から東京へ移ることになりました。
すると本来本社にあるべき【管理部】も、自然と東京へ移すべきということになり、私を含め管理部の全員が東京にて生活を始める、ということになってしまったわけです。
当時既に30代に入っていた自分には、東京で活躍する友人もたくさんいましたし、しかも東京ならば色々な観光も出来るし、北国では見知らぬ美味しいものもいただけるし、と楽しみが波のように押し寄せていました。
それと同時にもう1つの考えも。
自分は東京で暮らしたいだろうか……?
ずっと答えを出せないでいましたが、会社にも次の住まいを手配しなくてはならないリミットがあります。
悩んだ結果、私は札幌に残ることに決めました。
つまり、退職となります。
決め手はやはり札幌に居たかった。
これだけです。
30を過ぎてまでして今の会社を辞めるには、リスクばかりがついてまわります。
甘っちょろいと思われるかもしれません。
退職の旨を上司に伝えても
「東京へ引き継ぎで行っている間、仕事を続けたいと思ってくれたら嬉しい。時間をかけて考えて欲しい」
とも言って貰えました。
しかし東京で住むであろう【一人暮らしの間取り】ではどうしても、今まで自分で買ってきた愛着のある家具(ソファやベッド等大型のもの)が、東京へ行ったらほとんど家に入らないので処分して買い直さないといけないこと
方向音痴の甚だしい自分が、東京で時間通りに
目的地に着ける自信の無さ(笑)
雨の日に傘をさすと、行き違う人とすれ違えない道の狭さ
どこへ行っても行列を我慢しなくてはならない人の多さ
そんな些細なことがどうしても受け入れられませんでした。
他の兄弟が札幌から遠く離れて仕事をしている今、両親や祖父母の面倒を見られるのは自分だけだなぁというのもありました。
つまりは東京で働きたいという強い意志が無いと、地方者には暮らしていけないところなのだなと思ったのです。
私には引っ越してまでその仕事を続けたい情熱がありませんでした。
しかし決意してからは、東京にて引き継ぎをおこなった2ヶ月間、必ず週末はどこかへ観光にでかけ、めまぐるしく東京を満喫しました!!
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その2ヶ月間で行ったところリスト
・東京の友人に手を引っ張ってもらった銀座という異世界
・東京の友人に手を引っ張ってもらった新宿という魔界
・国立博物館
・国立科学博物館(丸1日かけて)
・日本科学未来館
・横浜&モーションブルーにてジャズ堪能
・サンシャイン水族館&しながわ水族館
・東京大神宮(会社の定期圏内だった)
・明治神宮&神楽坂で牛一頭買いのお店
・日光東照宮&華厳の滝
……あたりでしょうか。
毎週毎週、全力で楽しんで過ごしました。
最後の日光東照宮では、縁結びの寄生し合った【スギとナラ】の樹木がありまして。
そこで30代も過ぎたことだし、これからは結婚を目標に生きよう。
と、当時何の機会も確信もありませんでしたがそのご神木の前で
「なにとぞー!なにとぞー!」
と(笑)、お参りをしました。
そのご利益かどうかは……謎ですが、
札幌に戻ってきた翌年に旦那さんと出会いましたので、個人的には
やっぱり首都って凄い所だ!((((;゚Д゚)))
と思ったものです。
その後はいちいち履歴書を送ってそこから選別されるにはハードルが高すぎると思って派遣社員を続けてきました。
そろそろ社会に復帰しようかと考えていますが、今後どのような企業と出会ってまた新たな分野が開拓されるのか……楽しみにしたいと思います。
いずれにせよ、自分の人生において一番の転機は
東京生活を選択しなかったことでした。
悩みに悩んだ末に出した答えです。
たまに「あのまま東京暮らしをしていたらどうなっていただろう」と思う事もありますが、今のところ後悔はありません!!
転機とは、今までの自分では考えられないくらい、神経をすり減らして悩んで迷って答えを出すチャンスのことだと思います。
そして答えを出したなら、もう突き進むだけ!!です。